極東ロシア2都市紀行(3)ハバロフスク市民の憩いの場、アムール川周辺を歩く

極東ロシア2都市紀行

中国との国境を流れるアムール川

ハバロフスクを語るのに欠かせないのがアムール川だ。ちなみに、アムール川はロシア語で、中国語では黒竜江という。ロシア語読みと中国語読みの両方があるのは、この川がロシアと中国の国境を流れているからだ。ロシアを流れるシルカ川と露中の国境を流れるアルグン川が合流してアムール川となり、そのままずっと国境を流れている。

国境を流れているという言い方は、アムール川から「おいおい」と突っ込みが入るかもしれない。国境よりもアムール川の方がずっと前から存在しており、アムール川に沿って国境が決められたわけだから。

ホテルの窓から見たアムール川

アムール川が国境になったのっていつのこと?

極東ロシア2都市紀行(2)でも少し触れたように、アムール川が露中の国境と定められたのは、1858年のアイグン条約である。もともとこの地を勢力下に置いていたのは清(中国)で、17世紀後半あたりからちょっかいを出し始めたロシアとは小競り合いが続いていた。

極東ロシア2都市紀行(2)何やら薄暗いハバロフスク。パルスホテルで救われる
ハバロフスク空港でぼんやりと佇んでいると、空がオレンジ色に染まってきた。さて、ホテルへ向かって移動することにしよう。市内へはバスも運行しているが、空港バスなどという上等なものではなく普通の市バス。

度重なる戦闘を憂慮し、清の康煕帝がロシアのピョートル1世(大帝)に親書を送ったのがきっかけで結ばれたのが、1689年のネルチンスク条約だ。この条約により露中の間で、国境はスタノヴォイ山脈とアルグン川を結ぶ線と定められた。スタノヴォイ山脈はアムール川よりもずっと北にある。ロシアにとっては良い条件とはいえないものだ。

当時、ピョートル1世はまだ18歳。実権は共同統治者である異母兄イヴァン5世の姉ソフィアが握っていた。対して、清の康煕帝といえば、中国歴代の皇帝のなかでも傑出した人物と讃えられる。条約を結んだのはソフィアであり、百戦錬磨の康煕帝に手玉にとられたか? ちなみにこの後、ソフィアは徐々に力を失い、1696年からはピョートル1世の単独統治となった。

“目抜き通りの偉人”が力づくでアムール川を国境に!

ロシアにとっては忸怩たる思いの国境線。それを押し下げることができたのは、169年後の1858年のことである。時代も下り、清の国力はかなり衰えていた。外ではアヘン戦争やアロー戦争を戦い、国内では太平天国の乱。いわゆる内憂外患。はっきりいってもうボロボロ。シベリアなんぞに目を振り向けている余裕はない。そこを狙ってうまく仕掛けたのが、東シベリア総督を務めていたニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵。そう、ハバロフスクの目抜き通りにもその名を冠されている人物だ。

彼は停泊中のロシア軍艦から発砲し、「言うことを聞かないと、このあたりにいる満州人をみんな追っ払っちゃうぞー!」と脅しを掛けた。黒竜江将軍であった清国全権大使の奕山はこれに屈し、アムール川を国境線とするアイグン条約を締結。これによりアムール川より北はロシアの領土となり、ハバロフスクもロシア領となった。

アムール川の遊歩道を歩く

なにやら前置きが長くなったが、ハバロフスクの街の成り立ちを語るにアムール川は欠かせない存在であり、ここで最初に訪れる観光スポットはアムール川をおいて他にないということなのだ。ホテルからも近いし。

ハバロフスクの街はアムール川に面しており、ムラヴィヨフ・アムールスキー通りのほか、ウスリースキー並木通りとアムールスキー並木通りがまっすぐにアムール川に向かって伸びている。

市街地に面したアムール川のほとりは遊歩道として整備され、まさに市民の憩いの場となっている。ジョギングする人、自転車で走り抜ける人、ベビーカーでお散歩するママさんなど、実にさまざまな人が訪れている。舗装も美しく、最近整備されたのではないかと思われるくらい。なんとも長閑な雰囲気が漂っている。

アムール川沿いの遊歩道。とてもきれい

ちなみに、遊歩道からは川のすぐ近くまで下りることもできる。アムール川は冬には完全に凍結してしまうとのことだが、4月ももう終わろうとしているこの時期はすでに氷もすっかり溶けていた。川の水に手を浸してみたところ、ひんやりと冷たかったが、凍るほど冷たいというわけでもない。

地元の人たちも川までやってきて、川の水に触れていた。「水ぬるむ」季節を実感しているのだろうか。もうすっかり春ですね。

水辺で戯れるハバロフスクの母子

アムール川はどうやら遊泳禁止のようです

川の向こうは中国!? というわけではない

遊歩道を北西に向かって進んでいくと、展望台があった。ちょっとした高台にあり、眺めは良い。ちなみに、先ほどからアムール川が露中の国境であるとしつこいくらい言っているので、対岸はもう中国なのかと思うかもしれないが、遊歩道の対岸は残念ながら中国ではない。ハバロフスクの市街地の対岸はロシア領土である。中国とと国境を接しているのは、もう少し川を南に下った地点となる。

展望台からの景色。ウスペンスキー教会が見える

ただ、ハバロフスクの人たちにとって中国はかなり近い存在らしく、後日出会った旅行会社のスタッフ(瀧本美織ちゃん似)も、船に乗って中国の撫遠まで買い物に出掛けるといっていた。「中国の方が物価が安い」と言っていたような……。

少し調べてみると、極東ロシア2都市紀行(2)で紹介した“ハバロフスクの大黒ふ頭”から、中国行きの船が出航しているらしい。かつては露中の人しか行き来できなかったようだが、現在は外国人にも開放されているとのこと。このルートで国境越えをした人のブログを読むと、ここからの中国入国はなかなか面倒くさそうではあるが、貴重な体験ができることは間違いなさそう。今度ハバロフスクに行くことがあれば、検討してみたいと思う。

極東ロシア2都市紀行(2)何やら薄暗いハバロフスク。パルスホテルで救われる
ハバロフスク空港でぼんやりと佇んでいると、空がオレンジ色に染まってきた。さて、ホテルへ向かって移動することにしよう。市内へはバスも運行しているが、空港バスなどという上等なものではなく普通の市バス。

アムール川沿いの銅像を見る

展望台の一帯は公園として整備されているようだった。大きな観覧車があったが、動いていない。どうやら営業はまだのようだった。ちなみに、遊歩道と公園にはなぜか銅像が多い。ひと際目立っていたのは、アムール川を見ながら悠然とポーズをとるニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵の像だ。

アムールスキー伯爵の像。
手に持っているのは望遠鏡か?

郷土史博物館の向かい側にあり、しゅっとした佇まいが印象的なのはヤコフ・ディヤチェンコの銅像とのこと。彼もアイグン条約締結の立役者の一人で、アムールスキー伯爵が清に脅しを掛けている最中、アムール川に上陸してロシアの拠点を建設した。肩にコートを掛け、風になびかせている様子はなかなかのイケメンである。

ヤコフ・ディヤチェンコの像。
なかなかのイケオジです

そしてもう一人、強面の銅像はロディオン・ヤーコヴレヴィチ・マリノフスキーなる人物。第一次世界大戦や第二次世界大戦で活躍したソ連の軍人で、1954年に極東軍管区司令官に就任しているので、その縁で銅像があるのだろう。

ちょっと強面。
ロディオン・マリノフスキーの像

共産主義国家は銅像をやたらめったらと建てるイメージがあるが、ハバロフスクに銅像が多いのもその名残なのだろうか。

何にせよ春のアムール川のほとりは散策をするには格好のスポットだった。

 

 

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