極東ロシア2都市紀行(4)ハバロフスクのロシア正教会を見に行く(おまけ/戦勝記念碑)

極東ロシア2都市紀行

ロシアの人々の宗教は?

 海外の街を観光するとき、なるべく足を運ぶスポットの一つが宗教施設だ。宗教は人々の精神はもちろん、暮らしにも深く関わっていることが多く、宗教施設を見学することは、その国の人々を理解する一助になる。

ロシアでは人々は何を信仰しているのか。文化庁がまとめた「海外の宗教事情に関する調査報告書」(平成24年)によれば、ロシア人の7割がキリスト教の一派であるロシア正教を信仰しているとのこと。

ロシア正教会の十字架は八端十字架といわれ、
通常の十字架よりも2本、線が多い。

カトリックやプロテスタントならなんとなく分かるが、はてロシア正教とは? 日本人にとってはとんと馴染みがないといっていいだろう。

正教とは正しくは正教会といい、カトリック、プロテスタントと並ぶキリスト教の三大宗派の一つである。ここで少しキリスト教の歴史をひも解いておこう。

キリスト教はユダヤ教を母体とする宗教としてエルサレムで発祥し、ローマに広まった。各地に伝播していく中でさまざまな教派が生まれ、中でも力を持ったのが西ヨーロッパのローマ・カトリック教会と東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会(東方正教会)だった。ローマ教会とコンスタンティノープル教会は1054年に決定的な仲違いをして分裂。これがキリスト教がカトリックと正教会に分かれた発端だ。

なお、正教会は1国(民族)1教会が基本とされ、ゆえにロシアの正教会はロシア正教ということになる。ちなみに、日本にも正教会の教えは伝わっており、日本正教が存在する。東京はお茶の水あるニコライ堂(正式名称は東京復活大聖堂という)は、日本正教の教会である。

ロシアにキリスト教が伝わったのは?

ロシアには東ローマ帝国よりキリスト教が伝えられた。正教会の教えである。988年にはキエフ公国のウラジミール一世がキリスト教を国教とした。

ロシア正教は政治と強い結び付きを持ち、民衆に根付いた宗教として信仰されてきたが、そのため、ソ連時代には迫害される憂き目を見た。スターリンの時代には多くの聖職者が逮捕・処刑されたり、教会が破壊されたりしたという。

ロシア正教の神学校で教育を受けたのに、
後に弾圧することになったスターリン
※イラスト/acworksさん by 「イラストAC」

1991年にソ連が崩壊してからは信教の自由が認められ、ロシア正教も復権を果たした。信者数も199年には31%しかいなかったのが、その後ぐんぐんと信者が増え、2011年には69%に達している。とはいえ、礼拝に毎週参加するような熱心な信者はほんのわずかとのこと。まあ、日本における仏教徒みたいなもんですかね?

アムール川に面して、美しい姿を見せるウスペンスキー教会

前置きはこれくらいにして、ハバロフスクのロシア正教会に足を運んでみることにしよう。ハバロフスクにはロシア正教会がいくつかある。私が最初に目にしたのは、アムール川の近くにあるウスペンスキー教会だ。宿泊したホテルにも近く、自分にとってはランドマーク的な建物ともいえる。教会の一帯は教会広場として整備されていて、市民の憩いの場として親しまれている。

シンデレラ城(?)的な趣もある
ウスペンスキー教会

ウスペンスキー教会はハバロフスク最古の教会とのことだが、スターリン時代に破壊され、現在の建物は2001年に再建されたもの。白と茶を基調にした外観に、ブルーの屋根がアクセントになったなかなかスマートな建物である。ドアの上にはキリストとおぼしき顔が描かれているが、ローマ・カトリックとは異なる独特の雰囲気がある。

ちょっと情けないような……といったら失礼か

なんともいえない親しみやすさというか、哀愁を感じさせるこのお顔、どこかで見たことがあるなと思っていたら、トルコはイスタンブールのアヤソフィア内に描かれていたモザイク画と似ていることに気づいた。アヤソフィアはもとはコンスタンティノープル教会の総司教座であったわけなので、まあ、当然といえば当然かも。

内部はこぢんまりとしていて、一面にイコンが飾られている。熱心な信者がイコンの前で祈りを捧げ、時にはくちづけをしたり。観光客は邪魔にならないよう、静かに離れて見学。なお、内部は残念ながら撮影禁止。これはハバロフスクとウラジオストクのロシア正教会で共通だった。

イナケンチェフカヤ教会はハバロフスクに現存するもっと古い教会 

アムール川沿いにはもう一つロシア正教会がある。レーニンスタジアムの近くにあるイナケンチェフカヤ教会だ。1868年に建造されたハバロフスクに現存するもっとも古い教会と言われる。1917年の10月革命で閉鎖され、ずっとプラネタリウムとして使用されていたという。

愛らしい雰囲気のイナケンチェフカヤ教会

壁龕にあしらわれた美しいモザイク画。
なんともいえない慈悲深い表情に癒される

もとは木造だったというが、現在はレンガ造り。レンガの茶色と緑色の屋根、黄金のタマネギ型ドームの組み合わせが印象的だ。縦にドーンと長く伸びたウスペンスキー教会と比べると、なんとも愛らしい雰囲気が漂う。

ガイドブックなどではあまり紹介されていないせいか、観光客の数はあまり多くはないようだが、アムール川散策のついでに立ち寄るのがお勧め。

ハバロフスクを代表するスパソ・プレオブラジェンスキー教会

 先ほども延べたように私にとってのハバロフスクのランドマークはウスペンスキー教会なのだが、一般的にハバロフスクのランドマークとして認識されているのはスパソ・プレオブラジェンスキー教会である。

極東ロシア2都市紀行(2)で、空港からホテルまでの道すがら、あまりときめく景色に出会えなかったと書いたが、いま思い返してみると、タクシーの中から急な傾斜の坂道の向こうにタマネギ形のドームをいただいた教会の姿を見たときは、ハッと気持ちが高揚した。これこそがスパソ・プレオブラジェンスキー教会だった。ただ、街はすでに暗闇に包まれていたし、ほんの一瞬のこと。それが私の心に深く刻まれることはなかったのだ。

極東ロシア2都市紀行(2)何やら薄暗いハバロフスク。パルスホテルで救われる
ハバロフスク空港でぼんやりと佇んでいると、空がオレンジ色に染まってきた。さて、ホテルへ向かって移動することにしよう。市内へはバスも運行しているが、空港バスなどという上等なものではなく普通の市バス。

ハバロフスクは坂道の多い街である。なんでも「ロシアのサンフランシスコ」と言われているとか、いないとか。スパソ・プレオブラジェンスキー教会はムラヴィヨフ・アムールスキー通りと直角に交わるツルゲーネフ通りを南東に向かって進んだところにある。

このツルゲーネフ通りが恐ろしいほどの急勾配で、下から見ると道の向こうにスパソ・プレオブラジェンスキー教会が神々しいまでに輝いて見える。私はアムールスキー川の”大黒ふ頭”(極東ロシア2都市紀行(2)を参照のこと)から続く階段を上っていくルートを取ったのだが、この階段もなかなかきつかった。歩を進めていくと、だんだんと金色のドームが眼前に迫ってくる様は感動的だ。

美しい金色のドームが印象的

スパソ・プレオブラジェンスキー教会は2003年の建造。高さ70mを誇る威風堂々とした教会で、この高さはロシアで3番目なのだとか。3番目というのが売りになるのかどうかは微妙だが、まあ、でかいことはでかい。

小高い丘の上に立っているため、写真を撮るにも周りに何も余計なものが入らないので、大変気持ちが良い。中央にメインドームがあり、4隅に小さなドームが配された造りは安定感がある。

小高い丘の上にすっくと立つ

ドアの上に飾られていたのは
聖母マリアとイエス(?)のモザイク画

ウスペンスキー教会やイナケンチェフカヤ教会に比べると、規模も大きい。それもそのはずで、ロシア正教会ハバロフスク大主教の首座聖堂とのこと。内部は明るく、美しいイコンが所狭しと飾られていた。

なお、ロシア正教会の内部を見学する際には、女性はスカーフなどをかぶって髪を隠し、男性は帽子を脱ぐのがマナーとされている。スパソ・プレオブラジェンスキー教会には、入口のところにスカーフが置いてあった。だが、ウスペンスキー教会やイナケンチェフカヤ教会にはそうしたものは用意されておらず、観光客はそのまま(スカーフをかぶらずに)入っても特に問題がないようだった。

【おまけ】栄光広場と戦勝記念モニュメント

スパソ・プレオブラジェンスキー教会は栄光広場に立っているのだが、この広場は上の部分と下の部分によって構成されている。広場は第二次世界大戦の戦勝30周年を記念して作られたもので、上の広場には教会と戦勝30周年の記念碑、下の広場には戦勝40周年を記念した慰霊碑と「永遠の火」がある。

上の広場にある戦勝30周年の記念碑は、3つの柱と半円の地球儀のようなオブジェによって構成された巨大なモニュメント。柱に刻まれているのは、戦勝30周年記念の勲章受章者の名前だそう。地球儀には当時の社会主義国に★の印が付けられていて、時代を感じさせる。

戦勝30周年を記念して建てられた
巨大モニュメント

日本の造形が雑すぎません?(笑)

下の広場にある戦勝40周年の記念碑も巨大なもの。赤茶色の石造りの巨大な壁に、ソ連の国旗にも描かれている鎌と槌、五芒星があしらわれたオブジェが飾られ、その下に「永遠の火」が燃えている。この火は戦没者を偲ぶもので、24時間365日絶えず燃えている。赤茶色のモニュメントの両脇には、黒い石造りの壁がいくつも連なり、よく見るとここにびっしりと人名が刻まれている。これらは第二次世界大戦で亡くなったハバロフスクとウラジオストク出身の兵士の名前とのことだった。

24時間365日消えることがない鎮魂の炎

黒い石の壁には戦没者の名前が
びっしりと刻まれている

戦争で亡くなった兵士たちを悼む気持ちはもちろんある。だが、第二次世界大戦末期、ソ連が日本にした仕打ちを忘れることはできない。ましてやハバロフスクは非人道的な「シベリア抑留」で多くの日本人の命が奪われた地であることを考えれば、日本人としては複雑な気持ちになるのは免れない。早々とその場を引き上げた。

 

参考資料:「海外の宗教事情に関する調査報告書」(文化庁・平成24年)

 

コメント